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戦国時代のサバイバル 徳川家康

戦国時代のサバイバル

今回は徳川家康

徳川家康は「日本人に嫌われる性格」の典型

成功者でありながら人気がない家康

佐藤優氏が30年間、たえず読み返してきた「座右の書」であり「最高の基本書」。「伝説の学習参考書」と呼ばれる『大学への日本史』が読みやすくなって、しかも最新情報で新登場!

「あなたの好きな戦国武将は?」「あなたの尊敬する偉大な人物は?」

このようなアンケートでランキング上位によく来るのは「織田信長」「豊臣秀吉」「真田幸村(信繁)」「武田信玄」「伊達政宗」といったおなじみの名前です。その中に「戦国の覇者」である徳川家康の名はなかなか見当たりません。

150年にわたる戦乱の世に終止符を打ち、未曾有の平和な時代をもたらした「成功者」でありながら、なぜか家康はほかの戦国武将ほど人気がありません。むしろ「家康は嫌い」という人さえ多いように思います。

高視聴率をキープしているNHK大河ドラマ真田丸』でも、家康は主人公真田幸村(信繁「真田幸村の回」)の敵役として扱われるなど、狡猾で抜け目のない「憎まれ役」として描かれることがほとんどです。

今回は、なぜ「成功者」であるはずの家康がこれほど嫌われるのか、現代人が「処世術に応用できる教訓」とあわせて、解説したいと思います。

 

江戸幕府を開いた徳川家康とは?

Q1. 徳川家康ってどんな人ですか?

江戸幕府の初代将軍です。初めは三河(愛知県東部)岡崎の小大名・松平広忠の子として生まれましたが、後に織田信長と同盟を結んで勢力を拡大しました。

信長亡きあとはライバルの豊臣秀吉に臣従しつつ、最後は豊臣政権の「五大老の筆頭」として強大な権力を掌握しました。

秀吉が死ぬと「関ヶ原の戦い」で自らの敵対勢力を一掃します。そして1603年、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。

Q2.家康はなぜ天下を取れたのですか?

理由はいくつもあるでしょうが、やはり家臣に「優れた人材」を揃えたことと、家康自身の並々ならぬ「忍耐力」でしょう。

家康の家臣には井伊直政本多忠勝といった一騎当千の武人連がいる一方で、本多正信など内政に優れた文官も多数登用し、これらの「優れた人材」たちが後の強固な幕府の基盤を築きます。

それと同時に、「天下掌握のチャンス」をじっと待ちつづけた「忍耐力」も、家康が天下を取れた大きな要素だと思います。

Q3. なぜ江戸に幕府を開いたのですか?

京都の朝廷と政治権力を切り離すためです。

かつて源頼朝がそうしたように、家康も朝廷の干渉を受けない武家政権の確立を目論んでいました。当時、彼の本拠地であった東国の「江戸」は、京都の朝廷の干渉を受けないための最適地だったのです。

ただ意外なことに、将軍在位時の家康はほとんどを京都の伏見城で過ごし、引退後は駿府静岡市)を居城とするなど、自身が江戸にいた期間は生涯でさほど長くなかったようです。

Q4.「戦国の覇者」であり「江戸幕府を開いた成功者」である家康は、なぜ人気がないのですか?

確かに、同じ戦国武将でありながら、「織田信長」や「豊臣秀吉」、あるいは「真田幸村」といったいわゆる「ヒーロー」と比べると、家康の人気はやや劣ると思います。そこには、われわれ日本人にとって「嫌われる本質」が4つ存在します。

なぜ家康は嫌われる?

【理由1】「華々しさ」も「潔さ」もない

家康には、私たち日本人が好む「ヒーロー」の要素がありません。

源義経織田信長真田幸村など日本人が好きな武将には、「戦場で華々しく活躍する英雄」としての姿や、逆に「志半ばで潔く散っていく悲劇の英雄」としての姿があります。また豊臣秀吉には、「農民の子から天下人へ大出世した」という物語があります。

これに対して家康は、武田信玄に惨敗した「三方ヶ原の戦い」では命からがら逃げる途中、馬上で「お漏らし」しながらもしぶとく生き長らえました。また、「権力者」である秀吉に勝てないと悟ると、すぐさま屈服し、関東への転封を命じられると、意地やプライドはあっさり捨てて受け入れてしまいます。

日本人が好む「華々しく活躍する英雄」あるいは「潔く散る悲劇の英雄」、そのどちらの姿がないのも、家康が日本人に好かれない一因でしょう。

【理由2】「義理」を重んじない「薄情さ」

日本人の大好きな「絆」も、家康にとってはしょせん、出世のための「ツール」にすぎません。

まだ三河の小大名だったころは隣国の今川義元に従属していましたが、「桶狭間の戦い」で織田信長が義元を破ると、今川を見限って織田と同盟を結びます。

その信長が「本能寺の変」に倒れると今度は豊臣秀吉に従いますが、秀吉が病で死去するや豊臣家をないがしろにし、ついには「大坂の陣」で豊臣家を滅亡へと追いやります。

こういう「義理」に薄い、「人情」を大切にしない「薄情さ」が、日本人に嫌われる要因でしょう。

【理由3】「タヌキおやじ」と呼ばれる「ズル賢さ」

彼の政治手腕は、「タヌキおやじ」と陰で称されるほど「狡猾」です。

三河の大名時代、領内での一向一揆に手を焼いていた彼は、いったん一揆側と和睦を結び、彼らを解散させます。しかし、一揆側が解散するや否や、途端に手のひらを返して、武力で一揆側を弾圧しました。

後の「大坂の陣」でも、最初の「冬の陣」で豊臣秀頼と表面的には和睦しながらも、その陰で大坂城の総堀を埋め、翌年の「夏の陣」では豊臣家を滅ぼすというやり方も「狡猾」そのものです。そういう「ズル賢さ」「狡猾さ」が、家康が嫌われる一因でしょう。

【理由4】目的のためには手段を選ばず、それで成功した「しぶとさ」

家康が嫌われる最大の理由は、天下統一を果たし幕府を開くという「大偉業」を成し遂げたことに対する「嫉妬」でしょう。

【理由1~3】でも述べてきたとおり、家康の行動基準は「つねに自分が生き残る」ことです。

そのためには、「義理人情」どころか「恥や外聞」もかなぐり捨ててズル賢く世渡りを続け、自分だけが最後まで生き抜くことを「しぶとく」追求し続けました。そして、ライバルの誰よりも「しぶとく」長生き(75歳)しました。

そもそも私たち日本人は元来、成功者に対して、「や」っかみ、「ね」たみ、「そ」ねみを抱く、いわば「ヤマト」ならぬ「ヤネソ」民族です。

そのため、「目的のためには手段を選ばず、結果として目的を達成した」家康に対して、私たちはその偉大な業績には尊敬の念を抱きつつも、同時に強い「嫉妬心」や「単純に好きになれない複雑な気持ち」にかられてしまうのでしょう。

家康は「日本史」を徹底的に学んでいた

家康が「嫌われる理由」をさまざまな観点からみてきましたが、彼が偉大な「成功者」であることは揺るぎない事実です。

生涯にわたって「質素倹約」を旨とした家康。彼の残した莫大な遺産は、彼が心血を注いで築いた磐石な幕藩体制とともに、その後250年以上にわたる長い「平和の礎」となりました。

その結果、江戸時代の日本は、現在もなお世界に誇れるような高度な独自文化の宝庫となりました。「家康がいなければ、今の日本はなかった」と言っても過言ではありません。

また、「家康ほど日本史をしっかり学んだ武将は珍しい」ということも意外に知られていないかもしれません。

家康は「武家政権の祖」である源頼朝を信奉するなど歴史に造詣が深く、その死に際して、遺言として孫らに「歴史書」を形見分けしたことは有名なエピソードです。こうした彼の姿勢に触発された孫のひとり、「水戸黄門」こと徳川光圀(みつくに)は、長大な歴史書『大日本史』の編纂に生涯を捧げました。

家康が天下をとった最大の理由のひとつは「歴史」を学んでいたことです。たとえ誰かに妬まれようと、家康のように大きな成功を勝ち取るためには、歴史を学んで過去の事例に目を向け、そこから糧を得ることも大切です。

今回紹介したように、日本史には、現代人がビジネスパーソンとして生きるための「処世術」が満載です。人間の本質は、時代が変わっても、それほど大きく変わるものではありません。

ぜひ、家康が歴史を学んで「成功」を収めたように、日本史を学び直すことで毎日を生き延びる「知恵」を身につけてください。